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祈りはいつも、ここに

このお正月は、久しぶりに初詣に行きませんでした。忙しかったのもあるのですが、「行きたい」気持ちにもならなかったんです。

毎朝、感謝の祈りの瞑想をしていると、体にエネルギーが満ち、涙がこぼれます。目に見えない存在とのつながりを感じ、喜びと幸福で胸がいっぱいになります。このような至福感は、神社の前で手を合わせても、感じられたことのないものでした。

神社には御神体が祀られていますが、一人ひとりの人にとって、肉体は神社の建物、霊魂はその御神体と言うこともできると思います。肉体は霊魂が棲むお宮です。

祈りは「私にありがとう」という思いで終わります。体を作ったのは私ではありません。細胞一つ作ることはできません。その細胞の一つひとつが意識を持ち、私の感情や思いに反応しています。「愛している」と思う時、すべての細胞が愛の感情で燃え上がります。否定的な感情を持った時も、その否定的な思いで燃え上がるでしょう。

体と心と魂は連動していて、切り離すことはできません。人が唯一努力するべきことがあるとしたなら、それは、自分の体と心と魂が一致しているか、常に気を配ることであると感じています。

水の博士で知られる故江本勝博士の水の結晶の写真をご覧になったことはありますか? コップに水を入れて、「愛している」「ありがとう」「ばかやろう」などと書いた紙をはっておくんです。そして、結晶を観察してみると、「愛している」「ありがとう」などの言葉をはっておいたコップの水は美しい結晶を作っているのに対し、「ばかやろう」などの言葉をはっておいたものは、結晶が醜く壊れ、中には結晶を作らないものもあったそうです。

日本には「言霊(ことだま)」という言葉があるように、言葉には霊が宿る、という信仰があります。音の響きと共に、書き言葉としてもちゃんと波動があって、それが水に反映されているということです。

人体は70%以上が水であることを考えると、その人がいつも思っている言葉、想念がどれほどその人に影響を与えているかがわかります。同じ飲み物、同じ食べ物を摂っていたとしても、どんな気持ちで摂っているかで変わってきます。

もちろん、ジャンクフードや化学物質で汚染されている水や食物を避けることも大事でしょう。これらは物理的に細胞を傷つけていくでしょうから。その上で感謝していただけば、体に入っていく時は栄養価も増し、より体を元気で丈夫にしてくれるエネルギーへと変換されていく気がします。

先日、突然、伯父が設計を担当したという、乙事(おっこと)諏訪神社や諏訪社の御柱(おんばしら)祭の資料一式を送ってくれました。映画「君の名は。」に出てくる湖のモデルが、諏訪湖ではないか、と言われており、私も映画は2回も見に行きましたし、「君の名は。」展をしていた小海町高原美術館にも行ってきました。そんな折でしたから、このシンクロニシティに驚きました。

伯父が宮大工出身であったことも、乙事神社の復元の設計をしたことも初めて知りました。乙事神社は幣殿が国の重要文化財に指定されているのですが、本殿を有しない神社の珍しい例です。本殿は建築されていたのですが、火災で焼失してしまったようです。今では御神体は後ろにそびえる山、自然、森羅万象というとらえ方もなされているようです。

御神体を祀る本殿が形として残っておらず、森羅万象、八百万の神が御神体であるだろう、という考え方は今の私にぴったりでした。暖かくなったら、ぜひ、この神社を参拝し、伯父に会ってこようと思っています。

特定の何かやどこかに神がおられるのではなく、あらゆるところに、すべてのものに神が宿る、と考えてきた日本人の心の豊かさに思いをはせました。自分の中を流れる水、その水が清流であり、いつもサラサラと流れているよう心がけて生きていくことだけでも、信仰と言えるのではないかと思っています。

咲かせたい花の種を蒔きましょう

皆さんは、「自分が現実を創造している」と思いますか?それとも、「現実に起きることが、自分の人生を左右している」と思いますか?

私はほとんどいつも一人で出かけます。私がしたいと思うことを同じようにしたい、と思ってくれる人を探しているうちに、自分の情熱の火が消えてしまうからです。誰かをあてにするのも嫌だし、期待するのも好きじゃないし、と思っているうちに一人が一番居心地良くなってしまいました。

たまに誰かを誘ったりすると、その人に都合の悪いことができて、行けなくなります。忙しい人です。特に心の中で、忙しい人です。楽しいことをするのは気が引けて、心から楽しいと思ってはいけない、と(心の底で)思っています。もし、これを本人に言ったら、たぶん怒ります。そんなわけないって。

もちろん、顕在意識でそんなこと思う人はいません。楽しむことはいいことに決まってるじゃないって言うでしょう。もちろんです。楽しむことはいいことです。でも何で、楽しもうとすると、それを阻止するような出来事が起こるのでしょうね?自分で足かせを作っているとしたら?

魂レベルまで降りて行けば、気付くことのないたくさんの封印した思いがはりついています。人類の歴史を見ても、過酷な時の方が多くて、今ほど快適に暮らせた時代はなかったように思います。過酷な時代を必死で生き抜いてくれば、具体的な思い出は忘れてしまっても、癒しきれない傷は残っていくでしょう。それが、積り重なって、今ここにいる私たち一人ひとりは存在しています。

だから、白紙の状態で生まれてくるのでもないんです。今生においても、幼少期から社会の通念や親や教師や周りの影響を多大に受けて、大人になるころには、本当の自分て何なのか、本当にしたいことは何なのか、わからなくなってしまっています。

「象さんの鎖」の話を知っていますか?象は小さいうちに鎖につながれると、大きくなってからも、その鎖を引きちぎることはしないそうです。やってみれば、簡単に引きちぎることはできるのに、できないと思いこんでいるから、やろうともしないのです。これは象だけの話ではありません。私たちも見えない鎖にずっと縛られています。

外で起きることが自分の人生を左右していると思っている限り、変えることはできません。主導権を握っているのは外の世界です。私は被害者です。

でも、勇気を出して、自分が現実を引き寄せ創造していると考えてみてください。いやなこと、つらいこと、不都合なことがたくさんあって、それを自分が創造しているなんてとても考えられませんか?

でもきっとどこかで、種をまいたのですよ。いつまいたかも忘れてしまうくらい前のことだったかもしれません。いつかまいた種が成長して、今その花を見ているのです。とげだらけの痛い花だったら、そういう花を咲かせる種をまいたのです。良い香りの美しい花だったら、そういう花を咲かせる種をまいたのです。

過去にまいた種が、どんな花を咲かせるかは見守るしかありませんが、今日まく種は、今日選んでまくことができます。この瞬間にも、あなたも私も新しい種をまいています。どんな花だったらいいですか?咲いてほしい花の種を選んでください。そして、大きな花を咲かせるためには、土を耕して肥料を施す必要もありますね。種は心という花壇に植えるのです。あなたの心をふかふかの土にしてください。

固定観念でカチカチになった土では芽を出すのも大変です。柔らかい心になって、まきたい種を探してきて、まいてください。今日、今、まいた種は必ず大きくなっていつか花を咲かせます。時間がかかっても、水やりを忘れずに大切に育ててくださいね。寒さにあてなければ咲かない花もありますよ。チューリップのように。

チューリップの花を咲かせたかったら、厳しい冬を越す覚悟も必要です。植えてからずっと暖かかったら、花を見ることはできません。チューリップの花を咲かせるのに、寒さが必要と知らずとも、神さまはちゃんと寒さを用意してくださいます。だから、寒くていやでも、冬を通りすぎなければならないのです。種をまいたら、花が咲くのを楽しみにしながらも、自然にゆだねる信頼が必要です。

喜びの花を咲かせる種だったらいいですね。愛の花を咲かせる種だったら素敵ですね。あなたの心の花壇があなたの大好きな花でいっぱいになるように願っています。心の花壇はきっと、あなたの目に見える世界にも同じ花壇を作っていくことでしょう。

善きことだけが起きている

新しい年を迎えてから、一週間が過ぎました。新しい年のエネルギーも定着してきていることと思います。

私は昨日は、成田空港にいました。イギリスに出発する息子を見送って、午後からマヤ暦の勉強会に参加してきました。

成田から京成スカイライナーに乗りました。時間がギリギリで、切符を早く買わなくちゃ!と思っていましたが、頭は冷静でした。目の前をお父さんと5歳くらいの男の子の二人が通っていくのは、視界に入っていたのですが、気が付くと、尻もちをついて、転んでいました。男の子がひいていた小さなカートがまったく目に入らず、それにつまづいて、転んでしまったようです。荷物やコートをかかえた私は、一瞬、何が起きたかさっぱりわからず、我に返って立ち上がるまでずいぶん時間があったように感じました。

気付くと、周りのたくさんの人が私を見ていたのですが、心配そうなそのお父さんに「だいじょうぶです」と会釈して、切符売り場に向かいました。発車1分前に、席についてから、さっきのことを振り返ってみました。

私は小さいころから、とてもはずかしがりやで、人前で転んだりしたら、もう死んでしまいたいくらい、気にするタイプでした。でもスピリチュアルなことを学んでから、自分の行為を見ているもうひとりの自分が、本当の自分だとわかったんです。

「経験にのめりこみすぎない」という言葉を聞いた時に納得したのですが、自分が三次元だけに存在し、肉体がすべて、と思っていた時に、こういうことが起きると、「はずかしい」とか、相手に対する怒りとか、「ついてないなあ」と落胆する気持ちに支配されてしまって、心が激しく動揺したものでした。

でも、今回、何事もなかったように立ち上がり、気持ちがどこにも動いていませんでした。感情が動かず、ニュートラル(中立)なままでした。ただ、転んだ、ということが起こっただけのことであり、今生だけでなく、過去生から持ちこされたカルマの一つが今、明るいところに現れて消えただけのこと、ととらえていました。

潜在的にためこまれたカルマは、どこかで解消される時を待っています。それは明るいところに出して、見てあげれば、消えていきます。

「善きことしか起こっていない」という言葉の意味がわかりました。「すべてのことは、長い目で見れば、自分にとって善いことになる」と解釈していましたが、そこには、自分がOKだと納得できる状況にならなければならない、という一種のエゴが入っていました。気持ちのいい感情をいつか体験できるはず、だと思っていました。

でもそうではなくて、自分が気付くことさえない深い部分にためこんできてしまった苦しみ、悲しみ、怒り、つらさ、それらを浄化していくことが善きことなのです。魂がやむにやまれず、抱え込み封じ込めた痛みに光をあててあげたら、その分、魂は軽くなります。地上に生まれるのは、その過程を経て、魂を浄化させるためなのかもしれません。生まれた時より、もっと清らかな魂になって、帰るためにここにきたのかもしれません。

理由がわからないけれど、起こっていることには、そんな意味があるんじゃないかな、と思いました。だから、抵抗するのではなく、受け入れることが大切なのでしょう。

「魂の願いの通りに生きる。ハートの導くままに生きる。」

今年は、このことを、もっと感じながら生きてみようと思います。どうぞ、今年もよろしくお願いいたします。