善きことだけが起きている

新しい年を迎えてから、一週間が過ぎました。新しい年のエネルギーも定着してきていることと思います。

私は昨日は、成田空港にいました。イギリスに出発する息子を見送って、午後からマヤ暦の勉強会に参加してきました。

成田から京成スカイライナーに乗りました。時間がギリギリで、切符を早く買わなくちゃ!と思っていましたが、頭は冷静でした。目の前をお父さんと5歳くらいの男の子の二人が通っていくのは、視界に入っていたのですが、気が付くと、尻もちをついて、転んでいました。男の子がひいていた小さなカートがまったく目に入らず、それにつまづいて、転んでしまったようです。荷物やコートをかかえた私は、一瞬、何が起きたかさっぱりわからず、我に返って立ち上がるまでずいぶん時間があったように感じました。

気付くと、周りのたくさんの人が私を見ていたのですが、心配そうなそのお父さんに「だいじょうぶです」と会釈して、切符売り場に向かいました。発車1分前に、席についてから、さっきのことを振り返ってみました。

私は小さいころから、とてもはずかしがりやで、人前で転んだりしたら、もう死んでしまいたいくらい、気にするタイプでした。でもスピリチュアルなことを学んでから、自分の行為を見ているもうひとりの自分が、本当の自分だとわかったんです。

「経験にのめりこみすぎない」という言葉を聞いた時に納得したのですが、自分が三次元だけに存在し、肉体がすべて、と思っていた時に、こういうことが起きると、「はずかしい」とか、相手に対する怒りとか、「ついてないなあ」と落胆する気持ちに支配されてしまって、心が激しく動揺したものでした。

でも、今回、何事もなかったように立ち上がり、気持ちがどこにも動いていませんでした。感情が動かず、ニュートラル(中立)なままでした。ただ、転んだ、ということが起こっただけのことであり、今生だけでなく、過去生から持ちこされたカルマの一つが今、明るいところに現れて消えただけのこと、ととらえていました。

潜在的にためこまれたカルマは、どこかで解消される時を待っています。それは明るいところに出して、見てあげれば、消えていきます。

「善きことしか起こっていない」という言葉の意味がわかりました。「すべてのことは、長い目で見れば、自分にとって善いことになる」と解釈していましたが、そこには、自分がOKだと納得できる状況にならなければならない、という一種のエゴが入っていました。気持ちのいい感情をいつか体験できるはず、だと思っていました。

でもそうではなくて、自分が気付くことさえない深い部分にためこんできてしまった苦しみ、悲しみ、怒り、つらさ、それらを浄化していくことが善きことなのです。魂がやむにやまれず、抱え込み封じ込めた痛みに光をあててあげたら、その分、魂は軽くなります。地上に生まれるのは、その過程を経て、魂を浄化させるためなのかもしれません。生まれた時より、もっと清らかな魂になって、帰るためにここにきたのかもしれません。

理由がわからないけれど、起こっていることには、そんな意味があるんじゃないかな、と思いました。だから、抵抗するのではなく、受け入れることが大切なのでしょう。

「魂の願いの通りに生きる。ハートの導くままに生きる。」

今年は、このことを、もっと感じながら生きてみようと思います。どうぞ、今年もよろしくお願いいたします。