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願いは叶った!?

イギリスから息子が帰省中で、2日間、車で出かけたため、私は、自転車移動をしていました。自宅からクリニックまでは30分弱ですが、自分でも、体力と足の筋力がついたことを、とてもうれしく思っています。

子育てをしていた頃は、自分に全く時間をかけられなかったので、階段を少し昇るだけでも、息が切れていたのに、今では、かけあしでも平気です。平日夕方は水中ウオーキング40分、日曜日の昼間はクロールで1km泳ぐのが習慣になっています。

夕方、夕日が沈むのを見ながら、水の中を歩くのも、日曜日の昼間、青い空と白い雲を横目に見ながら泳ぐのも、私には極上の時間です。

そして、この前ふと思ったんです。これって、夢だったよなって。大学生の頃、泳ぎたくて、プールに行くとどこも混んでいて、思ったように泳ぐことができませんでした。「あー、思いっきり泳ぐことができたら、どんなに幸せだろう。」と思ったものです。今、日曜日のお昼頃行くと、1レーン貸し切り状態で泳げるので、もう、魚になった気分です。

クリニックを開業してほどなく、近くにプールのあるフィットネスクラブができて、そちらの方が勧誘に来てくださいました。子供が小さかったので、すきま時間をぬって泳ぎに行くのがやっとでした。それでも、プールに入って水につかっていると、生き返ったような気がしたものです。

先日、娘が、私の部屋に来て、「この部屋、いい匂いがする」と言いました。いろんなアロマを使っているからなーと思っていたのですが、ふと気がついたんです。「あーピアノの匂いだ」って。グランドピアノなので、木でできているんです。そして、そのことを娘に言ったら、「そうだよ。そのつもりで言ったんだけど。」と言われてしまいました。狭い部屋に何とか、グランドピアノを入れて、私はその下で寝ています。毎晩、木の下で眠っていたんですね。

このピアノも娘のピアノの上達に合わせて無理して買ったものです。彼女は完全に燃え尽きてしまって、今はもう全くさわりません。私のために残りました。

私は高校二年まで、ピアノを習っていましたが、全く上達しませんでした。でも、受験勉強の合間に、映画音楽など、好きな曲をピアノで弾きながら歌うのが、とても気分転換になっていて、やっぱりピアノが好きでした。

大学進学後、どうしてもピアノを弾きたくて、貸しピアノ部屋のようなところに行って、ピアノを弾きながら、やっぱり思ったんですよね。「思いっきりピアノが弾けたら幸せだろうな」って。

それから、本のこと。小さい頃から、本を読むのが大好きでした。でも本って高いんですよね。親戚のおばさんが本屋さんを営んでいて、たまに本を送ってくれると、うれしくて、何十回も同じ本を読みました。そんな私を見ていて、小学校高学年になる頃、母が全部で60巻くらいの文学全集をローンで買ってくれました。ほとんど全部読みました。小学校の図書館の本もほとんど全部、読みました。で、やっぱり思ったんです。「あー、本を好きなだけ買って読むことができたらどんなに幸せだろう」って。

もうひとつ。玄関に飾る花のこと。お花も食べて行くために必要なものではありません。安いものでもありません。自分で買って飾るのはお正月くらいでした。でも、自分の波動が上がってくると、そこに生花があるのとないのでは、自分が生きてるか死んでるかくらいに違うことのように感じました。で、「お金のこと気にしなくて、いつも大好きなカサブランカを飾っておけたらどんなに幸せだろう」って思いました。

今、これらの願いは全部叶いました。願ったことさえ忘れたくらい時がたったものもあります。潜在意識が3次元のプールをこしらえるのに、約20年かかったわけです。

この前トッチさんが言っていたことを思い出しました。何か願い事をすると、良いことと悪いことと両方引き寄せるのは覚悟しておけよ、と。

どっちかっていうと、最初に悪いことを起こして、フィールドを整えてから、願いは叶う・・・というパターンが多いように感じます。

どの願いも、めっちゃ願ったわけでも、お祈りしたわけでもなく、きっと、本当に心から、思ったんでしょうね。泳ぐことも、ピアノを弾くことも、本を読むこともお花も、本当に好きだったから、ちょっと思っただけだと私は思っているけれど、宇宙にダイレクトに届いていて、その願いを超高速スピードで叶えるために、宇宙はブルドーザーで地ならしをしていったわけです。だから、生身の体で顕在意識の世界を生きている私には、つらいことや、合点のいかないことや、泣くこともいっぱい起きたのです。

皆さんにもきっとこんな経験があるんじゃないかな、と思います。自分の心からの純粋な思いは、やっぱり宇宙に届いていて、聞き届けてくれるんです。時間がかかっているように見えても、宇宙はその瞬間、一番近道を即座に生み出して、自動操縦スイッチを入れるのです。叶わなかった願いには邪念が入っていたのかもしれないし、魂の願いではなかったのかもしれません。

マインドは楽なこと、気持ちのいいこと、が一番好きだから、魂が苦しんでもいいから成長したいという生き方は理解できない、といいます。魂は苦しみさえも喜びであり、全部わかって体験しているはずです。だから、やっぱり、何が起きても、生きてることは素晴らしいし、奇跡としか、言いようがありません。

体験しなければわからない

ご無沙汰しております。約一か月ぶりとなりました。この一か月は事務的にやるべきことが多かったせいもあるのですが、波風のたつことがなかったんですよね。私はハートのままに生きていて、常に愛を感じているから、すべてのことが流れていて、ひっかかるところがなかったんです。すると、自分が発信したいこともすべて出し尽くした感じになって、「ひだまり」も 終わりだと感じていました。

今日は、火をつけてくれる人が来ました。三次元真っ只中を生きている人です。久しぶりに、「全く困るよねえ」とか、「だから、あの時、こうしておけば良かったのに」という言葉を聞きました。

私のどん底の話を知っている人です。けっこう、きわどいところまで話したつもりですが、忘れてしまったのでしょうね。あれに比べれば、今は天国です。当時、本当に追い詰められていた私が思ったことは「とりあえず、みんな生きていれば、それでいいってことにしよう。生きてさえいれば、きっと笑える日もくるはずだから」ということです。

あの体験があるから、「すべては自分の考え方次第」で、困ったことのように見えることの中に、実は宝ものがあるんだ、ということをいつも思います。

体験者以外は結局は他人事(ひとごと)なんです。だから、追い詰められることも無い代わりに、真に学ぶこともないのです。魂の闇夜を通り抜ける間は、本当に苦しいけれど、闇を抜けるから、その分の光も知るのです。

そして、それをちゃんとハートで受け止めて、腐らないで、わかってくれる人にしか試練は与えられないようになっています。そしてその試練をくぐり抜けた時には、天と自分との間に、完全なる信頼関係ができています。何があっても、起きることすべてを受け止められる素地が出来上がっています。

だから、苦しい体験がきたら、感謝してください。私も過去にまいた種を今、せっせと刈り取っています。ハートの声を完全に無視して、ほぼ45年間も生きてきましたから、もう本当に大変です。「バカだった」と思います。

「私さえ我慢すれば、みんなが幸せになる」とずっと信じ続けて生きてきて、みんなが不幸になって、はじめて気づきました。私は誰のことも幸せにすることができなかった、と。つまり、誰かを幸せにするなどという考え自体が思い上がりだったのです。自分一人幸せにできない人間が、どうして誰かを幸せになどできるでしょうか。「そんな言葉は自分を幸せにしてから言え!!」と、自分に言ってやりたいです。

だから、みんなに言いたい。「やりたいことをやって!」「自分が幸せになれることを最優先して!」一人ひとりは全員、自分で幸せになれる力を持ってます。誰かに幸せにしてもらう必要などどこにもないのです。

泣いて泣いて泣いたら、ちゃんと立ち上がります。立ち上がれないのは泣いてないからです。被害者の自分がまだ好きだから、被害者の立場にいるんです。そう思って突き放していいんです。それはその人の選択なんです。

こんなに生きてきて、今更思うのは「ハートのままに生きてこられたら、どんな人生になっていたかな?」ということです。こんなめっちゃくちゃな刈り取り人生の中でしか出会えなかった愛もあるけれど、そうでない人生も生きてみたかった気もします。やっぱり、また生まれ変わってくるのかもしれません。

今は、カルマをひとつでも多く刈り取って、次はハートが歌うように生きてみたいです。みんなが自分らしく、自分のすべてを出しても、笑顔でいられるような世界に生まれてきたい。だから、今、その種もまいているんです。あと何年、何十年生きるかわからないけれど、今までの何倍も何十倍も、愛をこめて生きよう。今日も、今も、この瞬間も。そう思っています。