願いごと

人はなぜ、願いごとをするのか、考えてみました。

願うというくらいですから、簡単には叶わないことがほとんどだと思います。昨年、あるワークショップに参加した際、その日がちょうど新月だったこともあって、「10個、願い事を書きましょう」とピンク色の紙をわたされました。

新月に願う定番のやり方です。その時、私には願い事はひとつもない、ということに気が付きました。たぶんその理由は「宇宙は私が思うよりもっと良いものを用意してくださっている」ということを知っていたからだと思います。

願わなくても、課題は向こうからやってきて、その課題をクリアするために奮闘するうち、自分自身が一番磨かれていました。

皆さんには、そんな風に課題が向こうからやってきていますか? もしそうでないなら、もしかしたら、何か願い事を持つ、という形でやってきているかもしれませんね。

宇宙も神様も一番痛いところをついてくる、というのが真実です。その願いごとを叶えるためには、今までの自分を大きく超えたり、変えたりする努力をしないと、叶えることができません。どういうわけか、私の一番の弱みを知っているんです。一番恥ずかしいことだったり、一番できないことだったり、「それだけは勘弁してー!」てことだったり。

つまり、願い事が叶うかどうかより、その願いごとを叶えるために、自分自身がどれだけ、今の自分を超えられるか、ということが一番大切なことなのです。それほど、心惹かれて、魅力的だと思うことにチャレンジするから、一番の自分のウィークポイントも克服できるくらいがんばれるんです。

裏返すと、そこまでの努力ができないんだったら、それほどの願いごとじゃないんだねって、神さまには思われてしまうのです。

私も若い時は、願い事はたくさんありました。でもほとんど利己的なものだったんですよね。だから叶わなかったし、叶ったことは、その後、それが私の人間修養につながっていたことだけでした。
それを理不尽だと思っていたうちは、まだ逃げ場があった時で、逃げ場がないほど追い込まれて初めて、腹も座ったし、自分が握りしめていた手を開くことができました。

何一つ、思い通りにならない中で、自分を一回捨てて、宇宙に丸投げした時、ゼロポイントに戻って、私の再生への新しい人生がはじまっていきました。この前の山登りから更に、新しい展開が始まっています。もしかしたら、神さまのテストで及第点をとれたのかもしれません。たくさん贈り物をもらっています。

そして、及第点を取った私に、宇宙がしてほしいことがあるのかもしれません。この流れの中で、自分が心惹かれるものを素直に追及して生きていけば、それが何かも、自然とわかり、そこに導かれていくような気がしています。

いろんな立場の方がこれを読んでくださっていると思うので、すべての人に、納得いただけることを書いているわけではない、と思います。でも、今思うことは、宇宙も、神さまも、世界も天使たちもみんな、あなたの味方だということです。嵐の中にあった時も、きっと泣いている私の肩を抱いていてくれたんだと思うんです。

人生は必ず、つじつまが合うようになっています。それはあなたが思うような形ではないかもしれません。もしかしたら、あなたが一番ほしいものは与えていただけないかもしれません。でもきっと、それ以上のものを手にしていることに気付くと思います。その日まで、晴れの日もあれば、雨の日もあるけれど、そうやって一歩一歩、大切に生きていくのが人生の醍醐味でもあるのでしょう。

どんなことにも意味がある、そう思います。