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ここまでをふりかえって

「母のことを大好きだった」と書いていて、皆さんはどうだろう、とふと思ったんです。みんな、こんなにお母さんのこと、好きなんだろうか、と。

私の母は、私を産むとすぐ、仕事にもどりました。家の仕事でもあったため、休んでいる暇はありませんでした。23歳という若さで私を産んだので、体力もあったのでしょう。私は、おじいちゃんとおばあちゃんにとてもかわいがられて育てられました。それでも、夜、母が帰ってきて、一段落つくと、必ず、母の膝に入っていた、といつか祖父が言っていました。4年後に弟が生まれ、私は弟のことも大好きでした。

小学校に行ってから、よく風邪をひいて休みましたが、それは今思うと、風邪をひくとお母さんが優しくしてくれて、私によく声をかけてくれたからです。自分の意識で風邪をひくことができました。

小1の時、もう一人、弟が生まれて、こっちの弟は年も離れていますから、私は小さいお母さんです。よく面倒を見て遊んであげました。みんなが大好きだったから、いいお姉ちゃんになっていきました。

でもそれは、決してわがままを言うことのできない、我慢が当たり前の私の性格を形成していくこととなりました。

「今週末は、買い物に行こう」という母の言葉をいつも楽しみにしていましたが、週末になると、家事がたまっている母は、「また来週でいいよね」と必ず言って、約束が守られたことはありませんでした。いつもいつも私が、がっかりしていたことを母は知りません。私は、自分の言いたい言葉をのみこんで、本心を告げることを誰にもしない子供になっていきました。

そんなわけで、母のことが大好きなのに、もっと言うと、大好きすぎる人から裏切られた心の傷がずっと私の心の奥にあったんです。見ないようにしました。どうせ、振り向いてもらえないのですから。

4、5年前だったでしょうか。人生に今までとは違う問題が次々起こり始め、悩みの渦中にあった時、ヒプノセラピーを受けました。心理療法の一つであり、催眠状態(トランス)というリラックスした状態に誘導し、ある一定の暗示を用いて、人為的に特殊な心理状態や生理的な状態に導いていく手法のことです。自分でも気が付いていない潜在意識(無意識)に働きかけることができます。

その時のことが思い出されました。

大きな図書館の中で、自分の本があるから探すよう言われ、すぐ見つかりました。真っ白い本で光っていました。その本の中の好きなページを開いて、そこに行ってください、と言われ・・・気づくと砂の上に立っていました。足もとは編み上げのサンダルのようなもので、髪は金色で風になびき、背の高いがっしりしたとてもハンサムな男性でした。兵士でした。

家には、黒い髪の黒い瞳のとてもきれいな奥さんと子供が二人いて、幸せでした。セラピストに「今世で一緒の人は誰かいますか?」と聞かれ、その奥さんが母だとはっきりわかりました。あとははっきりしませんでした。

ある時、遠くまで大きな戦争に行くことになって、帰ってこられませんでした。崖から落ちて足をくじき、歩くこともできませんでした。意識は家に飛んで、奥さんが料理を作り、子供たちが遊んでいる姿が見えました。自分の帰りを待っているのがわかりました。

でも、帰ることができないのです。私は悲しくて涙がボロボロ出てきました。そのうちに、魂が肉体から、離れ、今度は安らかな気持ちで、家に帰っていきました。

このセラピーの時は、「なんで母がでてきたんだろう」とわかりませんでしたが、今わかりました。私の問題の根底には、母との癒されていない問題が根深く残っていたこと、それが人生全般に影響を及ぼしていたこと、それから、私はきっといつも母である魂と輪廻転生を繰り返し、学ばなければならない課題があったことなど。

ここまで生きてきて、やっと、ずっとはまらなかったパズルのピースがはまった、感じです。とってもスッキリしました。

私は、これからの人生がとても楽しみなんです。11月2日で52歳になりました。マヤ暦の還暦です。52年は運命の1サイクルが完了し、ここからは、本当の自分の人生がはじまる、と聞いていました。それまでは、親や社会や外からの影響を受けて生きていくけれども、52歳からは、本当の自分で生きていくのだと、ずっと52歳の誕生日を楽しみにしてきました。それまでに自分がどう変わっていくのか、その後は何が起きてくるのか。

今までの道のりは平坦ではなかったし、道草もいっぱいしたけれど、そのおかげで、これからの人生をこんなに楽しみだと思える自分になりました。

心にいつも愛があります。それが一番うれしいことです。みんなの幸福を心から願える私になれました。素晴らしい人生に心から感謝しています。ひだまりが私の心の中の愛を少しでも、皆さんに届けていてくれますように。

『存在とひとつに』

昨日、『存在とひとつに』(OSHO講話録 市民出版社刊) という本を読み終えました。OSHOの本は、いつも新しい発見があり、自分の翼を広げてくれるように感じます。「革新的なのに、愛に満ちている」と思いますが、革新的でなければ、愛に満ちることはできないのかもしれません。既存の固定観念は、私たち一人ひとりは、どれだけ無力で、可能性のないものであるかを、毎日、思い出させようとします。

そんな世界で生きていくのは、とても苦しいことです。世界が苦しいというよりも、そういう考え方で生きることが苦しいのです。今あるものを必死に守らなければならないと思えば、夢など見られません。人と違う生き方、先の見えない生き方を怖いと思っていたら、冒険はできません。冒険のない人生は、安定しているかもしれませんが、つまらないものでもあります。

「上善水の如し」という言葉があります。水は固体、液体、気体と周りに合わせて姿を変え、容れられた器に合わせて、円くも四角にもなります。相手を変えようとせず、相手に合わせて自分をいかようにも、変えていくのです。また、ひとつところに留まることもなく、川となれば流れ続けていきますので、腐敗することもありません。年齢を経るごとに、人生を退屈なもの、つまらないもの、と感じていく人が多いように思いますが、本来、生は歓びであり、いくつになっても学び続けることができます。

もう○○歳だからとか、こんな年になって学ぶ?という答えを返してくださる方がいますが、学ぶ=勉強(いやだけど、仕方なくやる)ということが幼少期から刷り込まれているからだと感じます。「いかに生きるか」は学校では教えてくれず、社会に出てからも、どうしたら、一社会人として、うまく生きていけるかは処世術とし学んでいきますが、それだけでは決して、心や魂は満たされることはありません。

自分で求めてはじめて出会うものであり、たくさんのそういった出会いの中から、自分にぴったりくるものを自分で見つけ出していきます。今日も、皆さんの発見のお手伝いになるようなOSHOの言葉を本の中から抜粋してみます。

「たとえばあなたが幸福を感じる。そして幸福と同化する。幸福と同化するとき、不幸は始まる。今やあなたはそれに執着し、その反対を恐れ、いつもそれが自分のもとに存在するように、と願う。それによってあなたは、苦の出現に必要なものすべてを生み出す。かくして苦が現れる。そして幸福に同化する人間は苦にもまた同化する。

気分は私をめぐって変わり続けるが、私は自分自身に中心を据えたままだ。どんな気分にも同化しない。どんな気分にも執着しない。何が起ころうとも、私はそれを見る。」

「生というものは全体だ。選択はできない。だから生全体を生きる。幸福な時があれば苦しい時もある。その両方を生きるのだ。さもないとリズムがなくなってしまう。リズムなしに生は存在しない。

音楽には、音符つまり音がある。そのあとには静寂つまり間がある。その「静かな間」と「音」があって、その対極があって、音楽が存在する。「私は音だけを選ぶ。間はいらない」というわけにはいかない。そうしたら音楽はなくなってしまう。単調なもの、死んだものとなってしまう。そうした間が、音に生命を与える。

もしあなたが、この対極性の全体と、生の動き方に気付けば、もはや選択することがなくなる。そしてもし選ばなければ、執着する必要がなくなる。苦悩が来ればその苦悩を楽しみ、幸福が来ればその幸福を楽しむ。

まったく何の苦労もなかったら、あなたは貧しくなる。苦悩というものはあなたに深みを与える。苦悩してこなかった人間はいつまでも表面的だ。いつも幸福や安楽の中にいて、苦悩したことのない人間には、陰影というものがない。彼にはハートがない。ハートというものは、苦悩を通じて作り出される。痛みを通じてあなたは進化する。

また苦悩ばかりで、何の幸福も知らない人間もまた、豊かではない。豊かさは対極から現れる。対極間を動けば動くほど、高く深く進化する。

無抵抗を自分のモットーにする。私は生に抵抗しない。生のもたらすものすべてを受け入れる。そしてそれを楽しむ。」

「子供たちは活気に満ち満ちているから、反復的なものは何もない。あなたは死んでいるから、すべてが反復的だ。この行為が退屈だとか、繰り返しや単調さや、長たらしい仕事が退屈だ、といったことは関係ない。本当のところは、あなたが退屈しているのだ。

だから仕事や行為を変えようとするより、自分の意識の質を変えることだ。自分自身に対し、もっと愛情深くなる。自分自身を愛していなければ、ほかの誰も愛せない。自分自身への愛をもって初めて、そのあふれるばかりの愛が他人に到達する。自分を深く愛していたら、その愛は自分のすることすべてにあふれ出す。何もしていない時でさえ、あふれ出す。それは絶えずあふれ出し、自分の〈存在〉そのものとなる。そうすれば退屈なものは何もなくなる。」

月の光

夜、空を見上げると、お月さまがだんだんまるくなっていることに気付きます。今度の満月は5月11日6時42分です。また、ウエサク祭の頃となりました。昨年の5月にもウエサク祭について書きましたので、参考にしてみて下さい。

京都の鞍馬寺では、前日夜、ウエサク祭が行われます。鞍馬寺は京都一のパワースポットとも言われ、不思議な伝説に彩られています。私は20代の頃、一度訪れていますが、予備知識もなく、訪れてしまい、もったいなかったなあ、と思います。

鞍馬寺を意識するようになったきっかけは、オーラソーマというヒーリングメソッドを始めたことです。好きな色の液体(水と油)の入ったボトルを選んで、身体に塗っていきます。自分に今一番必要なヒーリングを自分で行いながら、潜在意識にためこまれた痛みを癒していきます。

最初に4本のボトルを選んで、2本目に選んだボトルからワークを開始するのですが、それがサナトクマラのボトルでした。下がペールイエロー、上がペールピンク。とても優しい色と香りで包んでくれました。ボトルのメッセージを紹介します。

「どうしたらいいのか、わからない。自分はこうだから、人に愛されない。今のままのあなたでいてはいけない、と誰が言うのですか?あなたはあなた以外の誰かになろうとはしていませんか?そして愛を必要としているのに、このままの自分では愛されない、と決めつけてはいませんか?「あるがまま」を受け入れること。自分を批判するのではなく、自分に対して優しく接してみましょう。今、あなた本来の明るさやユニークさ、やさしさや穏やかさを、再び取り戻す時です。」

サナトクマラ様は鞍馬寺に祀られている尊天(護法魔王尊)です。650万年前に金星から降り立ったといわれているマスターで、私たちの住むこの世界の自然や大気、生き物とのつながりへの感謝を教え、この世界と天界をつなぐ役目をしている存在である、と言われています。

ウエサク祭での祈りの詩では「魔王尊はシリウスから下された光の棒で人間たちに天の力を与える」という記述もあります。

また、「五月の満月には天界と地上の間に通路が開け、ひときわ強いエネルギーが降り注がれるという。この夕、満月に清水を捧げ心のともし灯を輝かせつつ、降り注がれる神秘的なお力を身に受けて、自分とすべてのものの「目覚め」のための熱い祈りを捧げるのが、光と水と聖音の祭典「五月満月祭(ウエサク祭 ) 」である」と鞍馬寺の資料にもあります。

オーラソーマのボトルのワークは身体に塗ってまず自分への愛を送った後、すべてのものへの愛と感謝を送ります。毎日このワークを続け、サナトクマラのボトルを使い終わる頃には、それまで体験したことのなかったような変容が起きていたように思います。

自分をありのままで受け入れられるようになると、すべてのものへの愛と感謝は自然に湧き上がり、今までそういった感情を抑え込んでいたこと、むしろ、そう思うことは偽善者であるといつの間にか刷り込まれていたことなど、いろいろな気付きがありました。

5月に入ってから、私は一段とナチュラルになったような気がします。いつもただ、愛だけがあって、それがうれしくて、すべての人とそれは分かち合えると感じています。この満月の光があなたの心と身体に沁みわたり、あなたのすべてが愛で満たされますように。

天体の動きと共に

先週の木曜日のことです。山梨中央銀行の本店に用事があって出かけ、となりの岡島百貨店のお花屋さんで「ラ・フランス」というバラの苗を見つけました。この花はオールドローズとモダンローズの分岐点にあるような花で、そのどちらの良さも持ってます。園芸ガイドではよく取り上げられている花ですが、実際に見たのは初めてでした。幾重にも重なる剣のような花弁とその色合いは、あまりにかわいらしく美しくて、一目で恋に落ちました。そして、顔を近づけた時、ダマスクローズの香りがして、身体中に香りが満ちていくようでした。バラの花は女性に多くの恵みをもたらしてくれます。「ラ・フランス」はおすすめです。私も今咲いている一輪が終わったら、地植えにしようと思います。それまでは、もうしばらく、そばに置いておきます。

お店の中には、とても見事なカサブランカがあって、こちらも買いました。最近は上を向いて咲くシベリアというユリが主流のようですが、やはり、カサブランカは王道です。私は、ユリの香りが大好きで、一年中、絶やすことなく飾っておきたい花です。「あの世とこの世を結ぶ花」とも言われ、アセンションの今の花なのかもしれません。私のハート瞑想に出てくるのも、真っ白なカサブランカです。

他にもピンクと白のサフィニアの鉢植えを買い、「お花、買いすぎだよな」と思いつつ、お店の方としばらく、花への愛を語った後、お店を出ました。

そのまま家に帰るつもりでいたんです。それなのに、少し仕事をしていこう、と不意に思って、クリニックにもどって、仕事を開いた途端、「ドンッ」という音と衝撃があり、311の地震が思い起こされたのですが、外を移すカメラのモニターを見ると、道路に真横になっている車が映っていました。

運転手の方が一瞬、眠ってしまい、道路際の花壇にぶつかって、飛び上がり電柱を蹴って横向きになったようでした。相当の衝撃だったようで、エアバッグが開いていました。

ご近所の方が警察に連絡をとってくださったり、交通整理をしてくださって、とても助かりました。この場を借りて、お礼申し上げます。

運転手の方も気が動転しているようで、気の毒なほどでしたが、大きな事にならなかったことが一番の幸いでした。対向車が来ていなかったこと、小学生の帰宅時間だったのに、そこを歩いている子どもがいなかったこと、運転手の方も大ケガをしていなかったことなど。

事故処理がすべて終わる頃には、診察も終了時間を迎えていました。みんなが帰って、戸締りをして、車のドアを開けた時、どうして今日、こんなに花を買ったのか、わかりました。

カサブランカのいいにおいがします。ラ・フランスは先ほどと同じかわいらしさで私を見ていました。まるで、それから起きることを知っていて、私に「お疲れさま」を言うためにそこにいてくれたようでした。

翌日、いらした方が昨日、通りかかったようで、「大変でしたね」と声をかけて下さり、あの後、別の場所で二件、交通事故の処理をしている現場を通った、とおっしゃっていました。そして、思いだしたんです。「今、水星逆行期間中だった!」ことを。

水星逆行とは、水星が逆の方に進むように見える目の錯覚の天体現象で、一年に3~4回、一回に3週間ほど、続きます。今回のものは、4月10日にはじまり、5月4日の午前1時32分までです。起こりやすいことは

交通機関の乱れ、勘違い、判断ミス、通信障害、仕事が計画通りすすまない、体調が悪くなる、眠くなる、集中力がなくなる  など。

自分が宇宙の一部であり、天体の動きの影響下で存在するものであることを実感するかもしれません。しかし、そもそも、いいも悪いも人間が価値判断していることであって、一見悪いことのようなことも、学び、ととることもできるし、自分の忍耐力や中庸であるかを宇宙が問うていると思えば、悪いことなど何もありません。そして、「これもまた過ぎ去る」ことなのです。

変わらないものなど何もありません。形あるものは必ず壊れるし、だからこそ新しいものが生まれるのです。それを宇宙は完璧な方法で完璧なタイミングで起こしているだけです。私たちが、自分のやり方を貫こうとするのではなく、宇宙に合わせて生きていけば、ずっと楽にスムーズに流れていきます。

水星逆行期間中は無理をしないで、落ち着いて過ごしてください。宇宙は、あなたを愛しているから、「もっと休んだほうがいいよ」とか、「自分に嘘をついてない?」とか、あなたが気が付いてくれるまで、メッセージを送ってきます。言葉で言ってくれないから、直観力を磨いて、真意を汲みとるしかないんですけど。

まるで、呼ばれたようにクリニックにもどって、いるべき場所にいるんだ、ということを実感しました。常識でも、価値判断でもなく、「もし、私が愛だったら、私はどうするだろう」といつも自分に相談します。そこから始めるので、迷うことも、困ることも減りました。愛から行動すれば、少なくとも、自分を裏切ることや、自分が後悔することは決して起きません。自分が納得できればいいんです。あなたの人生はあなただけのものなのですから。