愛あるところに、神は在る

クリスマスです。この時はいつも以上にイエス様のことを想います。苦しかった時、夜、一人で公園を歩きながら、イエス様のことを思いました。

自分が磔(はりつけ)にされる十字架を背負いながら、どんな思いで悲しみの道(ヴィア・ドロローサ)を歩いたのだろう。磔にされ、それでもなお、天のお父様に「彼らを許してください。彼らは自分たちが何をしているか、わからないのです。」と自分のことより、自分にひどい仕打ちをした者たちのために祈っていたこと。

そして、激痛にさらされながら、「願わくば、この苦しみをとり除いてほしいけれども、それよりも、神の御心がなされますように。」と祈り続けたこと。たった一度だけ、天の父を疑ったことがあったと聞きますが、それほど、痛みと苦しみは肉体をもつ身には耐え難いものであったことが想像されます。

イエス様がそのような苦しみを耐え、復活を遂げた話は、どれほど私に勇気を与えたかしれません。イエス様の苦しみに比べたら、自分の苦しみなど、まだまだ耐えられる、と自分を励ましていました。

「磔なくして復活なし」苦しみの後に、喜びがくるという確信がない中でも、この言葉は、復活のためには、磔は必要なんだという思いを与えていました。

前回のひだまりを書いてから、生まれ変わりは本当にあって、今世でも出会っている人たちは、前世からのつながりがあるんだろう、と思いました。

私は、ヒプノセラピーを受けた時は、それ以上考えることはなかったのですが、今回、いろいろ考えました。母に頼まれると、絶対に断れなかったことや頼まれるとうれしくて、何でもしてあげたことなど。

きっと、兵士だった時、愛する奥さんを幸せにできなかったことが、悔恨の念として残っていたのでしょう。また、奥さんの方としても、帰ってくる、と信じ続けた人が帰ってこなかったわけです。不可抗力であっても、裏切られたような悲しみは消えなかったと思います。

二人とも、その思いを、いつかどこかで癒す必要がありました。この話も母と分かち合いました。癒されたと思います。

今出会っている人、これから出会う人、どんな意味があるのか知りたいから、これからも愛深く生きていきます。そうすれば、きっといつか、その意味も教えてもらえるに違いありません。それは人生が私に与えてくれる大きなプレゼントとなるでしょう。

今年も、もうすぐ幕をおろします。いい一年でした。こんなふうにかみしめることができるのは、苦しい時が長かったおかげです。だから、やっぱりそれらも全部含めて人生は贈り物だと思います。

神も天国も自分の心の中にあります。だから、心に愛があれば、いつでもつながることができます。外がどんなに寒くても、心の中に暖かい暖炉の火をともし続けてください。その火が燃えていれば、あなたが凍えてしまうことはありません。