日別アーカイブ: 2018年10月24日

『山月記』を読んで

秋晴れの美しい朝です。
中島 敦さんの『山月記』を読む機会がありました。
主人公は、虎になってしまうのですが、人間が人間である理由は何かを考えさせられました。

「いったい、獣でも人間でも、もとは何かほかのものだったんだろう。初めはそれを覚えているが、しだいに忘れてしまい初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか?いや、そんなことはどうでもいい。俺の中の人間の心がすっかり消えてしまえば、恐らく、その方が、俺はしあわせになれるだろう。だのに、俺の中の人間は、そのことを、このうえなく恐ろしく感じているのだ。ああ、全く、どんなに、恐ろしく、哀しく、切なく思っていることだろう!」

この場合の「人間」を私たちが考えている、現実の生活に翻弄され、願いのかなわない弱い人間としてとらえるのではなく、生まれたばかりの頃の光り輝く魂としてこの世に降り立った人間と考えてみました。

生まれてくる前、どの魂も清らかで美しく、何らかの目的や地上で成し遂げたい目的を持って生まれてきているはずです。それが、実際、食欲を筆頭に、生きていくためのサバイバルゲームに参加せざるを得ない状況を繰り返すうち、そのサバイバルゲームの中で生き残ることこそが、目的となってしまい、魂本来の願いを忘れてしまっているのではないでしょうか。

そして、それを忘れてこの世界に埋没してしまって生きた方が、楽だし、ある意味、しあわせなのでしょう。でも自分の中の本質は、それを恐ろしく、哀しく、切なく思っている。

本当にやりたかったことは何なのか、本当の自分の願いは何だったのか。そのことを思い出して、それに向かって生きる人生を始めない限り、本当の人間ではないのです。獣のように、お腹が空けば、獲物を獲って食べるだけの日々をただ繰り返すだけなのです。

「なぜこんな運命になったか分からぬ、と先刻は言ったが、しかし、考えようによれば、思いあたることが全然ないでもない。(中略)
己の珠(たま)にあらざることを惧(おそ)れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々(ろくろく)として、瓦に伍することもできなかった。(中略)
人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣にあたるのが、各人の性情だという。俺の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だったのだ。虎だったのだ。これが俺を損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、おれの外形をかくのごとく、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。」

この尊大な羞恥心、というのがエゴのことですね。すべての人が持っているものです。魂の成長度合いに応じて、エゴが大きい人もいれば小さい人もいます。
それは外側からはわかりません。人間の姿をしていれば、みんな同じ人間として見えるからです。
エゴをできるだけ落として、高次の存在である自分を思い出し、本来の美しい魂として、地上でも生きていけるようになるまで、修行は続きます。

人間が猛獣に変わることはありませんが、その生き様によって、外見は変化します。どういう人生を生きてきたのか、外見から推測できるようになります。年齢が上がれば上がるほど、それを顕著に見て取れるようになります。

獣になっていくのではなく、本来の美しい魂の自分になっていくこと。生きることの一番の目的だと思います。決して楽なことではありませんが、出来ないことでもありません。今まで意識しなかったことに、ほんの少し、意識をしていくことで、気付きを得ていきます。小さな一歩が大きな成長へとつながっています。

今日を大切に、目の前のことを大切に、丁寧に生きていけば、きっと何かが見えてきます。