愛を選ぶ

今朝、起きる時、思ったことです。

もう亡くなってしまった叔父の話です。いろんなことが時がたったので、お話させていただいてもいいかなと思います。

叔父は祖父から受け継いだ会社を経営していました。会社の景気が良かったころは、クリスマスプレゼントに、当時はまだ珍しいトランシーバーを買ってきてくれたり、小学校の入学祝に、最新型の机や牛革のランドセルをくださったことを覚えています。

とてもやさしくて、ダンディで素敵な人でした。でも、会社の経営が思わしくなくなり、倒産しました。親戚にもたくさん迷惑をかけ、今までお正月には、叔父の家にみんなが集まるくらい、仲がよかったのに、バラバラになりました。

叔父は太平洋戦争で戦地に行っています。ある日、お団子がふるまわれたのですが、その中に実は毒が入っていました。みんなお腹がすいていますから、疑うことなく食べて、亡くなっていったそうです。その日、叔父はお腹の調子が悪く、食べることができなかったため、命拾いしたそうです。

そんな運の強い人でした。私は自分が苦境に立たされる経験をするまでは、叔父に対して、みんなと同じ思いしかありませんでした。大きな借金をこしらえて、みんなに迷惑をかけたひどい人・・・。

でも一番苦しかったのは、叔父さんですよね。お坊っちゃんで育てられ、何不自由なく、いい暮らしをしていた人が、すべて失ったわけです。

母が言っていました。「倒産するまでは、鼻持ちならない人だった。でも倒産して人が変わった。人の気持ちがわかるようになった」と。

何年か前に亡くなりました。70代もずっと働き続けて、借金は全部返したということです。

いつ会っても、素敵な人でした。そんな苦しみを抱えているようには見えないくらい明るくて笑顔で。でも確かに倒産前より、柔らかくなっていたように思います。

亡くなる数日前にお見舞いに行きました。たまたま入院しただけで、身体が回復したら退院する予定でした。とても元気で、80代でしたが、こんなきれいなお年寄り、見たことない、と思いました。おしゃれな人ですから、病院のベッドの上でも首元にスカーフを巻いていらして、私が行くと笑顔で迎えてくれました。

その時、思ったんです。辛いこともたくさんあったろうに、それでも、こんなに美しく生きる人もいるんだと。確かに人に迷惑もかけたけど、人生のどん底を味わって、それにきちんと向き合って、生き抜いたことはやっぱり素晴らしいと。

叔父は結婚する前に、愛していた人がいたけれど、祖父に反対されて、その人と結婚できず、祖父の決めた人と結婚しました。祖父は明治生まれの頑固な人ですから、当時、長男が父親に逆らうことなど考えられなかったと思います。

私は何度も思いました。もし、叔父が自分の愛している人と結婚していたら、会社は倒産しなかったんじゃないかと。

それも「もし」の話ですから、わかりません。でも、今朝、叔父さんがこのメッセージをみんなに伝えてほしくて私のもとを訪れたならば、と思い書いています。

この世界で一番大切なことは「愛」です。愛することです。自分の最愛の人を決して手放してはいけません。その愛があったら、どんなことも乗り越えていけます。

世間体でも、人がどう思うかでもなく、自分のハートはどう思うのか、どう感じるのか、そのことを一番に考えて生きてください。心の中に愛する人がいたら、決して戦争などしたいと思わないでしょう。みんなの幸せを考えられる人になります。

自分の幸せを最優先してください。心に嘘をつかないで。心の声に耳を傾けて。自分はどうしたいのか、何をしていたら幸せなのか。一人ひとりが自分と生きていく時がきています。

今まで涙を飲み込むしかなかった先人たちのためにも、私たちは幸せになる時を迎えていると思います。

見えない山を登っているすべての人へ

今、また山を登っています。見えない山です。この前フローが起きた時は、短期決戦で、今度の山は時間をかけてじっくり登る山です。

この山に登らなければならないとわかった時、頂上ははるか雲の上でした。登れるのか予想もつかない未知の高い山。今までで一番過酷なミッション。いつものように一人で登ります。

途中で助けてくれる人や物や運を引き寄せられるかは、すべて自分の力量次第。だからどんな時も、心がけだけはきれいに、宇宙を信じて祈りながら、登り始めました。

手探りですすむところもあったし、霧が濃くて前が全然見えないところもありました。天候が良くて、自分の調子もいい時は、ミラクルが起こったように先にすすむことができたこともありました。

今、8合目あたりです。足踏みしています。風が強く、Goサインが出ません。そこで、テントに入って、今の心境を綴ってみることにしました。

がむしゃらにすすんで行ける時はむしろ楽なんですよね。待たなければいけない時、「待つ」ことは信じることだとわかります。

自分が問われます。「信じて待てるか」。宇宙はもっと良いものを用意してくれている。もっと良い時を用意してくれている。何も起こっていない時に、「これからきっといいことが起こる」と信じられるかと宇宙に訊(き)かれています。

振り返ってみると、登る山は、徐々にレベルアップしていました。2年前、この山を登るよう言われても、登れなかったと思うし、宇宙もそんな無謀なことはしませんでした。登れるだけの力がついたのです。だから、どんなに過酷でもきっと登れるはずなのです。

そして一番大事なことは、心のありようです。やっつけ仕事のように、ただ単に頂上にたどりつけばいいんじゃない。一歩一歩どんな気持ちで、どんな感情で登っているか。心の中に不平不満をいっぱいためこみながら、いやいや登るのではなく、苦しい時にも、高山植物の美しさを堪能したり、汗が心地よく感じるような爽やかな風を楽しんだり、きれいな空気を胸いっぱい吸いこんだり、ちょっと視線を上にあげてみたら、カモシカがいたりして・・・。

今、「浄化」が一つのキーワードになっています。この前の台風もそうでした。一晩中、大風が吹いていました。翌朝、いつもの公園に行くと、大きな松の木が何本も根こそぎ掘り起こされ、倒れていました。

降り続く雨で地盤も緩んでいたせいでしょうね。この前、ひだまりで書いたことを目の当たりにして、人間も同じだと感じました。

この浄化の時、ただ強いものが残るわけではありません。「たおやか」な強さをもつものです。美しくしなやかでやさしい女性性を持つものです。人生の風雪にさらされながら身につけてきた真の強さです。

私は宇宙が今、そういう強さをみんなに持ってもらいたい、と願っているのを感じます。簡単に身につけられるものではありません。努力は必要です。でも、宇宙が成長し続けている限り、私たち人間も同じように、努力し続けていく存在なのです。現状維持は退化しているのと同じこと。昨日より一歩でも二歩でも先にすすんでいくべき存在なのです。

それが宇宙と共に生きるということであり、宇宙の流れに乗って生きることです。

頂上にたどり着いた時、私は一体どんな景色を見るのでしょう。今は少し休んで、Goサインが出たら、また登り始めます。

このタイトルは栗城くんの本の最初に書いてあった言葉。私はこの言葉に出会った時も山を登っていました。今より低い山だったけれど、それでもすごくしんどかった。だから、この言葉にどれほど勇気づけられたかしれません。

皆さんの人生の山登りも、登って良かったと思えるものであるよう、祈っています。そして、今、登っている皆さんへ。私も一緒に登っています。見えなくてもつながっているから。いつも励ましているから。一緒に登っていこうね。

 

赤い糸

すっかり秋めいてきましたね。とんぼが目の前を飛んでいきます。収穫の喜びを味わう時です。あんなに暑い夏を乗り切っただけでも、自分をほめてあげてくださいね。今日は愛について思うところを少し書いてみます。

先日あったことです。「自分から愛すると、相手からも愛が返ってくるよ」という話をしていたら「だから、私もこんなにしてあげてる」という言葉が返ってきて、少しショックでした。この言葉から私が感じたのは「ギブ アンド テイク」・・・愛ではありません。愛はただ与えるだけで喜びなんです。

愛している対象には、やはりときめきが必要なんですね。相手から見返りなんて一切必要ないくらい、「私が愛している」という気持ち。

本来、「愛する」ということはそれくらい幸せなことだと思うんです。だから、長年連れ添った夫婦や恋人って、はたから見れば、「仲よさそうに見えても、実は惰性とか馴れ合い」なのかもしれません。

それなら、そこに新しく愛を注ぎ込むのは無理なのかもしれません。愛ってとても新鮮な喜びです。例えて言うなら、花です。

花は今日、一番美しく咲いて、明日にはしおれていくかもしれません。その一日の美しさを見逃すことなくとらえ、心からその美しさを堪能することです。そうすれば、たとえ明日しおれてしまっても、枯れてしまってお別れする日がきても、何の心残りもありません。

私はその花の美しさを十分楽しんだし、その花も私が心から愛してくれたことに満足して散っていくでしょう。

誰かを愛するためにまず一番必要なことってなんだと思いますか?私は自分を100%愛することだと思います。そして100%の自分を生きていることだと思います。

前にこんな言葉を聞いたことがありました。

「お互いに自分に足りないところを相手で埋めようとしている。空っぽのハートと空っぽのハートを差し出しているにすぎない」

だから、恋愛は奪い合いのゲームになり、イニシアチブをどっちが取るか、ということに躍起になります。そして、熱が冷めれば惰性になっていく。

それを何度繰り返しても気付かない。本来、宇宙的観点から見れば、宇宙が決めたたった一人の運命の人とめぐり会うことができて、その人と恋愛することができれば、その愛は永遠であり真実のものなのです。

いわゆる「赤い糸」でつながっている人はすべての人にいるのですが、簡単に、会えません。みんなその人とめぐり会うことを心の底で願いながら、何度も生まれ変わって探しています。人生の主たる目的は、その人と本当の恋愛ができる自分になるために、自分を磨き続けていくこと、と言えるかもしれません。

今世でめぐり会えなくても、来世では会えるかもしれません。その二人のめぐり会いには、宇宙と天界が関わっている、と言われています。準備ができた時に運命が動くのです。私たちのできることは、その準備をしていくことだけなんですよね。

そして、その過程で気付くと思うんです。この生き方こそが宇宙の贈り物だったということに。その人に会いたいから、どんな困難がやってきても乗り越えることができる。私は山のこっち側を登っていて、その人は山の向こう側を登っている。だから、頂上まで行かないと決して会えない。でも、登り続けたら、きっといつか会える。

そう信じて登ることです。それが宇宙が一番味方してくれる生き方であり、最後に最高の喜びが待っている人生です。

 

 

 

誰かが見ていてくれる

私の幼いころのいじめられ体験は小1の頃、はじまりました。仲間はずれにされる。意地悪をされたり、言われたりする。一般的なものでした。

今日、お話したいのは、そのいじめがどのように終息していったか、ということです。

小5だったと思います。ある日の学級会で、ある男子が、私がいじめられていることを取り上げて、「一江さんがかわいそうです。」と言ってくれました。その一言から、みんなも、こんなことがあった、こんなことを見た、と発言し、結局、いじめをしていた彼女は、いる場所がないほど追い込まれ、次の日から、いじめは全くなくなりました。

私は、状況がのみこめず、ぽかーん、といった感じで、あっけにとられていました。子どもだったから、その時はいろんなことがよくわかりませんでした。

でもあの○○くんがあんなことを言うなんて信じられなかったし、休み時間になって、「おまえ、一江さんのことが好きなんだろ?」とさんざんからかわれていました。

好きだったというより、人間として、見ていられなかった、ということだと思います。一生懸命生きていれば、必ず誰かが見ていてくれて、助けてくれる、ということです。

いじめられていた間、きっと私は成長した部分もあって、もういいなと、神様が判断して、彼を通して、いじめをおさめてくれたのかもしれないし、今考えても、不思議な体験でした。

気付かなくても、あなたのことを見ていてくれる人が、必ずいます。本当に助けが必要な時は、必ず助けてくれます。

人間のこともあれば、出来事や物だったりすることもあると思います。特に、天には通じるんですよ。あなたが、きれいな心でどんな時も、ひたむきに生きていれば、必ず見ていてくださいます。

だから、苦しくても、つらくても、そのことを信じて前にすすんでくださいね。私も、心から、あなたを応援しています。