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受け容れる

私は、前は、みんな幸せなんだ、と思っていました。悩み事があると、私以外の人には、悩み事がなく、苦しんでいるようには見えなくて、自分だけが、だめな人間で、情けなく思っていました。

そんなわけないですよね。幸せそうに見えるあの人にも、この人にも、その人だけが抱えている悩みや苦しみがあります。

それらを見えなくしているのは、この世界がありのままでいていい、ということを許してくれないからではないかと思うようになりました。

いつも人と比べられて、「もっとがんばれ」と追い立てられ続け、悩んだり苦しんだりするのは非効率的なことで、そんなことに時間を割いているくらいなら、「もっと努力すればいい」。できないのは私の能力が足りないことと、まだまだ努力の余地があるからだ、とまことしやかに私に襲い掛かっていました。

「光だけが素晴らしい」「勝つことにこそ意味がある」

心のどこかで、「それは違うよ」と言ってくれている私がいたのに、その声はあまりにも小さいから、聞こえないふりをして、外側の大きな声ばかり聞いて生きてきました。私もみんなのように幸せになりたかったから。その声を聞いて、その声の言うとおりに生きていったら、きっと幸せになれる、と信じ続けて。

だから、人生を覆す(くつがえす)ほどの、出来事が起きた時、信じられませんでした。私はその大きな声を聞いて、一生懸命生きてきたのに、「幸せになれるんじゃなかったの?」と。

最初に、価値観の崩壊が起きました。今まで私をずっと支え続けてくれたエゴも、もう私のことを励ますことができないくらい、絶望しました。生きてきたことにも、これから生きていくことにも、何の意味もない、全部無駄だった、私の人生は何の価値もない。目の前が真っ暗になりました。

最初は逃げたかった。怖くて怖くて、いつどこから化け物が飛び出してくるかもわからないこの真っ暗闇のトンネルをすすむことも引き返すこともできず、出られないことがわかっていても、逃げたかったし、すすむ勇気がありませんでした。

毎日、それまで見たこともない化け物と遭遇するうち、少しづつ逃げない勇気が生まれてきました。この化け物を退治できるのは自分だけです。私にはその力がある、そのことにやっと気づいて、恐れないで、化け物を直視し、立ち向かっていきました。

時には、疲れ切って、もう限界だと思うことも何度もあったし、私は一生、このトンネルから出られないのかもしれない、と泣き続けた夜もありました。

でもちゃんとすすんでいたんです。ある日、突然光がさして、出口がありました。

そのトンネルを抜けて、もうかなりたちます。ふりかえって、今、トンネルの中にいる人に、一番伝えたいことは、必ず、出口があって、進み続ける限り、あなたはその出口に向かっている、ということです。

その体験が私にもたらした一番の贈り物は、心の豊かさだと思います。今まであたりまえだと思っていたことが、すべて素晴らしいものに見えるようになりました。

生きていること、今、命があること、感動したり、喜びで胸がいっぱいになったり、心から私を生んでくれたものへの感謝をいつも感じています。

私の魂は、計画通りに絶望と希望を私に体験させました。そのコントラストが際立ったものであるほど、後に体験する喜びは大きなものとなります。

小さい絶望からは小さい希望が、大きい絶望からは大きな希望が。自分が耐えられる分量をちゃんと計算して、魂は決めてきているはずです。

だから、あなたの魂の計画を信じて、受け容れて、一緒に生きてください。

幸せは感じられるかどうかです。感じられる心を取り戻すために、苦しみも悲しみもつらいこともあるのです。

自分に起こることで意味のないことなど一つもありません。しかも、あなたを愛しているからこそ、幸せになってほしいからこそ、そしてそのことに気づいてほしいから、起きているのです。宇宙からの愛は、言葉を飾り立てたり、甘い態度であなたを誘惑したりしないので、その真実をあなたが見抜けるようになる必要があります。

そしてそれを見抜くことができるようになった時、すべては愛だった、愛しかなかった、自分自身が愛そのものであり、そのままで愛されていたことに気づきます。

あなたが、そういう喜びに出会ってくれるよう、心から祈っています。

夏至の日に寄せて

昼間の一番長い日。今日の夕方は、太陽がいつも以上に美しく、夕焼けもきれいでした。こんな日は、生きてて良かった、とただ、思います。

いろんなこと、たくさん考えてしまう日もありますが、生きる喜びを享受したくて、生まれてきたのでしょう。

生きる喜びの中には、幸せを感じることはもちろんですが、つらいことや、めげそうになることを乗り越えた時にしか見えてこない、体験できない喜びもあります。

廻り道をしても、最初よりもっと愛の深い人になることができたなら、その廻り道は通って良かった道です。

自分に正直に生き始めると、自分を偽っている時はすぐにわかるようになります。魂が泣いているのを感じるようになりました。

だから、エゴが必死に私を守ろうとしてくれても、魂を置いてきぼりにはできません。「ごめんね、エゴ。今までありがとう。でも私は傷つくことがあったとしても、魂の声を聴いてあげたいんだ。それが本当の幸せだって、わかったから。」

そして、魂のいたところまでもどってきて、魂と私が一つになった時、本当の幸せは心で感じるものなのだと、気づきます。私が幸せなら、それを人に証明する必要はないし、形も姿もいらないのです。

時の流れの中で、ありのままの私として、今を喜びながら、ただ生きていればいい。私が私を選んで、生まれると決めたのだから。起きることすべてが、愛に違いないのです。

『NO LIMIT』

登山家の栗城 史多(くりき のぶかず)さんが、亡くなったことを今日知りました。ひだまりをまだ、院内だけで出していた平成22年11月号で栗城くんの『NO  LIMIT ~自分を超える方法』という本から、抜粋して特集したことがあります。

栗城くんのチャレンジは無謀であるとする人や、嘘つきと呼ぶ人もいて、人の評価は様々です。

私はこの本を読んで、限界にチャレンジしている人だからこその胸を打つ言葉をたくさんもらいました。

今、この本を読み返してみても、やっぱり、素直にいいなあ、と思うのです。そんな言葉を今日は、いくつか、ご紹介して、栗城くんへの、感謝の気持ちに代えさせていただきます。

 

山登りはとてつもなく苦しい。でも苦しければ、苦しいほど口から出る言葉がある。「ありがとう」

本当につらい時がある。でもその苦しみからいつも逃げているわけにはいかない。かといって立ち向かったとしても、勝ち目がないかもしれない。そんな時は苦しみに対して「ありがとう」

 

高い山は酸素が少ない。吸えない感じはないが、吸っても吸ってもからだに力が入らない。一体何回吸えば、一回分になるんだろうと焦る時もあった。でも本当は、吸おう吸おうとするから駄目なのだ。

酸素が少ない時は、吐けばいい。吐けば入ってくる。自分が出そうとしないと入ってこない。欲しい、欲しいってやってると入ってこない。何か欲しい時は、自分から吐くこと。そして与えること。自分が吐き与えることによって、酸素も喜びも入ってくる。

 

山登りで一番危険なのは執着心だ。登り切れば幸せなのは確実だが、頂上に行けるかどうかは「山の神様におまかせします」 強い思いには必ず限界がやってくる。大切なのは登っても、登れなくても感謝すること。

 

一番好きな桜は、満開の桜がヒラヒラと、風に揺られて散っていくとき。もし、桜が散らなかったら、こんなに美しいとは思わないだろう。命も同じ。終わりがあるからこそ、「今」があることに感謝し、命を燃やして生きようと思える。

高校の時、僕は母を亡くした。体中にがんが転移していく中、普通だったら「つらい」とか「痛い」とか弱音を吐いてもいいのに、母はまったくそういうことを言わなかった。

かわりに聞こえるか聞こえないかの声で「ありがとう」と口を動かした。母の最期を見届けた瞬間、僕は何のために生きるかを考えはじめた。人間というのは限りがある。そして、終わりが近づくとわかっていても、心を折らずに、そうやって生きていく人もいる。その姿を見て、自分も一生懸命生きなければと思った。最期に「ありがとう」って言って、この世を去れる人間になりたい。

最期に感謝できるような、人生を送れるか。長く生きられたかどうかは関係ない。

大切なのはいま、どう生きるかだ。